千種 有功 ちぐさ ありこと
   

隣よりなでしこを
こひにおごとたりけれは
有功

中垣のへたに心も
なきまゝに
きみにまかせつ
なでしこの花
  
45p×32p

寛政811月9日(新暦1796年12月7日)生〜嘉永7年8月28日(新暦1854年10月19日)歿 
 江戸後期の歌人。家号は千々廼舎(ちちのや)、鶯蛙園、在琴。三位千種有条の子。文化七(1810)元服昇殿。文政二(1819)和歌御人数に加えられる。同十年左近衛中将、天保三(1832)正三位。
 初め一条准三宮忠良の、次いで飛鳥井家、有栖川熾仁親王、久世通理などに入門。和歌に熱心で日ごとに歌を詠み毎月二、三回自宅で歌会を開き、百首歌会も時々催し、また日常風流を愛する生活をした。
 旧風が改まらない堂上派の中にあって、香川景樹、賀茂季鷹、黒沢翁満、橘千蔭らと交わり新風を興したので堂上からは疎んじられた。二条派を脱した歌風の歌のみならず四条派の画、書を能くした。
 家集『千々廼舎集』は没した翌年、安政二年初編として出版されたが、想の新しい歌が見出される。他に『日枝の百枝』『ふるかがみ』、「唐詩選」の五言絶句七十四首、七言絶句百六十五首をことごとく和歌にした『和漢草』(わかくさ)などがある。
 會津八一は『和漢草』に出会い、これこそが「印象」というものなのだと言う。印象を和漢で共有することだという。そして八一もその試みに入っていったという。
 『鹿鳴集』に入っている九首がそれである。
   宿昔青雲志 蹉柁白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐(張九齢『唐詩選』)
   いくとせか 心にかけし 青雲を つひにしらがの 影もはづかし(千種有功『和漢草』)
   あまがける こころはいづく しらかみの みだるるすがた われとあひみる(會津八一『鹿鳴集』)
 また、『新書画価録』( 文久元年1861)に、「大雅堂:小判十両、狩野探幽:小判五両、松平不昧:三十匁、千種有功:十五匁、芳野金陵:二匁」とある。弟子よりも師匠が低いランクに置かれるということなど茶飯事であり、身分も関係なかった。松平不昧公ですらそこから免れてはいない。とはいえ不昧公の半額とは、当時、有功の評価がだいぶ高かったことが知れる。

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